日本の出版文化
日本の印刷技術は印刷技術発祥の地である中国からもたらされました。8世紀後半に仏教のお経を印刷したものが現存しています。『百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)』と呼ばれる現存世界最古の出版物です。
主にコウゾの木の皮(現在の紙幣の原料でもあります)を原料とする和紙は繊維が長く丈夫で、保存方法さえ適切なら千年以上も使用可能な状態で保存できることが証明されています。
出版の技術はこのように8世紀からありましたが、大量の需要があった仏教関係の書物や経文を印刷する程度でした。出版業者が営利目的で出版する商業出版(営利目的の出版)が始まるのは商人や職人、農民たちが経済力を持ち、識字率も向上した江戸時代になってからのことです。
江戸時代になる直前、16世紀末には韓国とヨーロッパから日本に活字印刷の技術が入ってきました。活字印刷は中国でもありましたが、中国では木活字が中心であったのに対し、朝鮮では15世紀から銅活字による印刷が盛んになっていました。
16世紀末、九州のキリシタン大名が派遣し、イタリアを訪れてローマ法王に面会した天正遣欧少年使節はグーテンベルク式印刷機を日本に持ち帰りました。長崎ではその印刷機を使ってキリスト教関係の本やローマ字の「イソップ物語」などが出版されました。それらは「キリシタン版」と呼ばれています。
日本での活字印刷は銅活字版は広がらず、主に木活字が用いられました。ところが、活字印刷は漢字の楷書を印刷するのには向いていましたが、日本の一般的な書物はひらがな主体で文字を続き書きするため、(草書)に合わないこともあり、江戸時代の初めだけで活字印刷はすたれ、その後は一丁(現在の本の見開き2ページ分)を木の版に彫って印刷する「整版印刷」にほぼ統一されました。
彫る専門職人を「彫(ほり)師」、印刷する専門職人「摺(すり)師」と、分業で印刷が行われました。江戸時代に出版が盛んに行われるようになるにつれて、これらの職人の技術水準はどんどん高くなっていきました。
製版印刷は文字や絵の線を残し、それ以外を彫り込む、凸版印刷です。文字も絵も線であり、線を残しで掘ることは変わらないので、一画面に文字と絵を複雑に組み合わせることが可能になりました。絵の余白にストーリーや発言の文字がある絵入りの小説類が発達しました。
彫師と摺師の技量の高さを示すのが18世紀の後半に登場した浮世絵の錦絵(多色刷り)です。絵師は下絵を描き、色を指定するのみで、あとの工程は職人に委ねられました。
色ごとに版木を作り、重ねて刷って製作されます。彫師は浮世絵の細かい線を彫り込む技術と、色ごとの版をずれないように作る技能が必要でした。また、摺師は絵師の指定する色を絵の具の調合によって作る能力と、何枚もの版木を重ねてする際に寸分もずれないように刷る技術を要求されたのです。
現在浮世絵というと絵師のみが注目されますが、多くは名前が残っていない彫師や摺師が超絶技巧を駆使していたことを忘れてはならないのです。