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細道・より道・松尾芭蕉

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松尾芭蕉

松尾芭蕉とは

芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師で、俳句を単なる言葉遊びの芸事から世界で最も短い詩として文学にまで高めました。

芭蕉は1644年に伊賀国の上野(三重県伊賀市)の松尾家の次男として生まれました。十代でその地を治める藤堂家の屋敷に務めました。その家の跡継ぎであった新七郎は俳句をたしなみ、俳号を「蝉吟」)と言いました。芭蕉はこの人の下で俳句を覚えたと言われています。蝉吟が亡くなった後、藤堂家を辞め、京都に上って北村季吟に俳人となるための修業を本格的に行ったと考えられています。季吟は当時著名な歌人・俳人・古典文学研究者でした。

30歳を過ぎから江戸(現在の東京)に出、俳諧の宗匠(指導者)となりました。このころの俳号は「桃青」でした。彼は8世紀中国の詩人「李白」を尊敬していました。「李白」は人名でもあり、「白いスモモの花」という意味の熟語でもあります。芭蕉は李白の名をもじって「青い桃」と名乗ったと考えられます。

1680年冬、芭蕉は隅田川をはさんで江戸の町の対岸にある深川に引っ越します。その庭に弟子が植えた芭蕉の木が大きく成長したことから、この家は「芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。そこで彼は俳人としての正式の名乗りを「芭蕉庵桃青」とし、単に「芭蕉と称することが多くなりました。このころ、芭蕉は中国・日本文学の伝統にある隠者文学を意識し、自身も隠者のように意識した句を多く作っています。

1684年以降、芭蕉はしきりに旅に出るようになり、「野ざらし紀行」をはじめとして、いくつかの紀行文を書いています。李白・杜甫ら中国の詩人たち、日本の12世紀の歌人西行、15世紀の連歌師宗祇といった文学者たちが旅によって文学性を深めていったことにならったのです。

1689年(元禄2年)3月、門人の河合曽良を伴い、東北・北陸の旅に出発します。芭蕉46歳でした(※注)。この年は平安時代末の歌人である西行法師の500回忌にあたっていました。西行は生涯に2度東北を旅しました。芭蕉は西行、そして西行と同時代の源義経をはじめとする源氏と平家の武将の足跡をこの旅でたどりました。

芭蕉と曽良は5か月かけておよそ2400㎞の行程で東北、北陸地方を回り、知友の多くいた美濃国大垣(現在の岐阜県大垣市)で旅を終えます。この旅の体験をもとに紀行文『おくのほそ道』を書き、旅の5年後に完成しました。

約150日の旅のうち当時出羽国の一部であった現在の山形県域内には41日間滞在しました。山寺立石寺も訪れ、その時の体験をもとにして「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句が『おくのほそ道』に収録されています。

1694(元禄7)年、芭蕉は病気のため滞在中の大阪で亡くなります。51歳でした。遺体は遺言により遺言通り琵琶湖畔の膳所にある義仲寺に運ばれ、12世紀の悲劇の武将・木曽義仲の墓の隣に葬られました。最後の句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」でした。

芭蕉は「蕉風」(「芭蕉流」という意味)と呼ばれる芸術性豊かな俳諧の流派を確立しました。日本史上最高の文学者の一人として位置づけられています。『おくのほそ道』と代表句「古池や 蛙飛び込む 水の音」は日本人のほとんどが知っています。

 

(※注)近代になる前の日本では年齢を「数え年」で表記する習慣がありました。これは生まれた年を1歳とし、翌年から正月に1歳を加えていくものです。ここでも数え年で表記しています。なお、東洋には「0」の概念がなかったことも留意すべきです。

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