旅をした詩人たち
17世紀後半に活躍した、俳句の大成者である松尾芭蕉(1644-1694)の代表作である紀行文を通して、日本の旅の詩人の系譜をご紹介します。
俳句の原型は和歌で、31音から成る「短歌」が1300年以上にわたって作られてきました。俳句は芭蕉の生きた時代の少し前から盛んに作られるようになりました。俳句は和歌の一部が独立し、17音で一つの作品と見なされるようになったものです。和歌が主に貴族たちによって作られたのに対し、俳句は江戸時代の支配階級である武士や勃興した町人(市民)たちが担いました。
より大衆的である俳句は、和歌や日本がその文明圏に属していた中国の漢詩(かつて日本人は古代中国語で詩を作ったのです。古代中国語はヨーロッパにおけるラテン語のような存在でした)に比べて低級なもの、芸術性の乏しい、片手間の遊びのようなものと見なされていました。
ところが、このような俳句の地位を漢詩や和歌に並ぶ地位に高めようと目論んだ人がいました。それは江戸時代の松尾芭蕉(1644~1694)です。
彼は日本・中国の文学史上、旅をしながら優れた詩を作った人の系譜があることに目を付けました。ちなみに日本古代の詩人たちが和歌に織り込んだ土地は、特有のイメージが付与され「歌枕」と呼ばれます。
古い時代に「みちのく」(「道、街道の奥」の意味)と呼ばれた東北地方は都のある京都から遠く、辺境と位置づけられていました。都の歌人たちは「歌枕」によって東北のイメージを発展させていきました。
芭蕉は自分自身も自身旅に出て、詩人の足跡や歌枕を訪ね、その体験をもとに俳句を作りました。その旅の頂点に位置するのが1689年に行った東北地方の旅です。当時45歳の芭蕉は150日間で2400キロメートルを歩きました。私の住む山形県には40日間滞在し、多くの句を作っています。この旅をもとにして書かれたのが紀行文『おくのほそ道』です。
『おくのほそ道』は短編小説程度の分量しかありませんが、日本文学の代表作として日本語を母語とする人は学校で必ず学びます。また、英語はじめさまざまの言語に翻訳されて日本を代表する文学作品と見なされています(イタリア語訳は1992年と2009年に出版されています)。
では、芭蕉と旅でその足跡を訪ねた詩人たちとのかかわりをご説明しましょう。
・能因法師(988~?)
能因法師は2度東北地方を訪れています。
「法師」は仏教の僧侶という意味です。能因は貴族の出身で26歳で出家しました。
日本では出家することは権力や富を捨てることを意味し、現世の身分や人間関係のしがらみから離れることができ、自由に生きられるようになります。また、人びとの尊敬も得られ、行動、とくに旅行の自由も確保できるのです。芭蕉も職業的僧侶ではないが形式的に出家しており、僧侶の格好で旅をしていたとみられます。
さて、能因が足跡を印したとして知られる名所を2箇所、芭蕉は訪れています。
一つは、東北地方の入り口と見なされ、関所があった「白河の関」です。この地で詠まれた能因の和歌は、次のようなものです。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
(京都を出たときはまだ霞のかかる春だったが、白河の関に着いたときはもう秋になっていた)
実際には1000キロくらいの距離ですので、普通に旅すれば1ヶ月もかからないはずですが、都との距離感を誇張した和歌として非常に有名になりました。
ただし芭蕉の訪れたときはすでに関所は無くなり、跡地も定かではなくなっていました。
もう一つは、「象潟」(きさかた)という景勝地です。彼が3年間住んだとされる小島があり「能因島」と呼ばれ、『おくのほそ道』には芭蕉が訪問したことが記されています。
・西行法師(1118~90)
能因よりも140年後に生まれた西行法師は日本の歌人の頂点に位置づけられます。もともとは皇族を警護する武士でしたが、家族を捨て突然出家しました。
彼の生きた12世紀後半は貴族が権力を失い、武士が源氏と平家に分かれて政権を争う騒然とした時代でした。西行自身も武士でした。また、東北地方においては奥州藤原氏が平泉を拠点に支配者として君臨し、半独立国に近い状況でした。
芭蕉の旅の目的はいくつかあり、世俗的なものと芸術的なものは12世紀に活躍した歌人西行法師の足跡を訪ねることが目的の一つです。西行法師は73年の生涯のうち2度歌枕を訪ねています。芭蕉のこの旅は西行が亡くなってから500年目にあたる年でした。
今から800年前、西行は冬に平泉を訪れ、激しく荒れる天候の中、古戦場を見に行き、凍りつく衣川の風景をうたっています。
とりわきて 心も凍みて 冴えぞわたる 衣河見みにきたる今日しも
(今日は体も冷えるが、かつて多くの武士たちが戦って命を落とした衣川の古戦場を 見るとその悲劇を思って心も冷えびえと冴え渡ることだ)
平泉は東北地方を支配していた藤原氏が根拠地としていた都市です。現在も多くの仏教寺院や遺跡が点在し、世界文化遺産に指定されています。西行が2度目に訪れた直後、ハンニバルのような天才武将であった源義経が、政権を握った兄頼朝と不仲になって逃げ込んだため、かくまった藤原氏は頼朝の命令で義経を殺しましたが、藤原氏も時をおかずに頼朝に滅ぼされました。
芭蕉は西行の歌をふまえ、この平泉の悲劇の歴史を思って句を詠んでいます。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
(権力を争った武士たちの争いは遙かな昔になり、今は古戦場に夏草が生い茂っている。 まるであの戦いが夢であったかのように)
・宗祇(そうぎ)法師
宗祇法師は15世紀に活躍した連歌師です。「連歌」は和歌から派生し、俳句につながっいった過渡的な文芸形態と考えられます。短歌の31音を二つに分割し、17音と14音の句を数名の人が交代して詠んで続けていく、合作の詩であることが特徴です。
宗祇は日本各地を旅した人で、もし芭蕉が出現しなければこの人が旅の詩人の代表格として今日知られることになっていたと思います。
芭蕉に、
世にふるもさらに宗祇の宿りかな
という句があります。これは宗祇の句、
世にふるもさらに時雨の宿りかな
(人生はあたかも、時雨が降ってきて一時的に雨宿りをすることにも似て、短くはかないものである)
をふまえ、芭蕉が「私自身も宗祇のそのような人生観に賛成しています」と宗祇への共感を述べたものです。
先ほどの能因の際に触れた白河の関跡の近くに「宗祇戻し橋」(宗祇が引き返した橋)呼ばれる橋があり、芭蕉はその伝説を聞かされてその橋を訪ねています。
その伝説は次のようなものです。土地の有力者たちが開催した連歌の会が、適切な指導者がいないために難航していました。たまたま近くに滞在していて、そのことを知った宗祇は指導のため出かけましたが、と出かけ、橋にさしかかった時、謎の女が現れ、宗祇に変わって詠んだ句を示し、姿が消え失せてしまいます。恐らく歌の神の化身であったのでしょう。その句を聞いた宗祇は感心して橋のところから引き返していってしまった、というのです。
もう一つ、私が『おくのほそ道』で宗祇伝説と関係があると考えている部分を紹介します。芭蕉は現在の山形県に入ったところで、険しく人がほとんど通らず、山賊がしばしば出現するという山道「山刀伐(なたぎり)峠」を通ったとして、その体験を緊迫感あふれる文章にしています。ところが実際にはその峠道は通行量も多く、それほど危ない場所ではなかったのです。これは芭蕉が宗祇の以下の伝説をふまえて小説めいた誇張をしたものと私は考えています。
宗祇法師は東海道の箱根の山中で山賊に襲われました。(ちなみに箱根は東北地方ではなく、東京と京都を結ぶ街道の山道で、富士山の近く)あごひげを僧侶が仏教の儀式に使う「払子」(ほっす)にするために抜こうとしました。そこで宗祇はとっさに
わがために払子ばかりは許せかし塵の浮世を棄て果つるまで
(この人生をきれいに掃除する〈=死ぬこと〉までは、このひげを抜いて払子に使うの はゆるしてください)
と和歌を詠みました。払子はもともと塵を払う掃除用具であったので、それをふまえたのです。その歌の素晴らしい出来に山賊は降参し、宗祇の弟子となった、という伝説があります。
これはもちろん事実ではあり得ません。しかし詩にまつわる伝説が付与されるのはその人が一流の詩人である証明です。
・松尾芭蕉
さて、芭蕉はこのように先輩詩人の面影を訪ねる旅を行ったのですが、一方では自身で新しい「歌枕」を創造する試みも行いました。
その一つが現在山形大学がある山形市の郊外にある山寺立石寺(りっしゃくじ)です。
芭蕉は奥の細道の旅の途上、初夏の7月13日に立石寺を訪問し、一泊しました。そこで詠んだ句が
山寺や石にしみつく蝉の声
(山寺の風景の特徴である石に蝉の声が響いている)
です。しかしこの句の出来栄えに飽き足りなかった芭蕉は、その後数年間かけて推敲し、次のような形に改めています。
静かさや岩にしみいる蝉の声
(荘厳な雰囲気に包まれた山寺の岩々に蝉の声が静かにしみ通っていく)
この句が作られるまではさほど知られていなかった山寺立石寺はその後有名となり、鉄道の駅ができて年間100万人が訪れる観光地となりました。また、芭蕉と俳句に関する資料を多数展示する博物館「芭蕉記念館」ができたのです。
・正岡子規(1867~1902)
芭蕉が旅した奥の細道はその後俳人たちの聖地となり、多くの俳人・歌人たちがその跡をたどるようになりました。その一人に正岡子規がいます。
日本の短歌と俳句を近代化した革新者として知られる子規は、1893年夏、20代半ばの頃、新聞記者として芭蕉が亡くなってちょうど200年目に東北地方を旅しました。そして旅行記を彼のつとめていた新聞に連載しました。
子規は芭蕉の足跡を丹念にたどって俳句そして和歌を作っています。彼は文学に志す者として芭蕉を大変尊敬していたのです。
芭蕉の句に影響を受けた作品としては、たとえば最上川での芭蕉の句
五月雨を集めて早し最上川(最上川が梅雨の雨を集めて水量を増し激しく流れる)
を意識した
ずんずんと夏を流すや最上川(夏の暑さを最上川の流れが流し去っていく)
などを作っています。
ところが、思わぬ副産物がありました。彼は旅先で出会った俳人たちが芭蕉をただ闇雲に神格化し、その威光を利用してみずからを権威者と見せかけている俗物たちであることを発見したのです。芭蕉の精神は地に墜ちていたのです。
皮肉なことに子規は芭蕉の作品の価値を否定することによって旧勢力の俳人たちを攻撃しました。結果として日本の俳句を革新することになりました。現在の俳人・歌人たちは全員が子規の流れを汲んでいます。しかし芭蕉に対する尊敬の気持ちは俳人に限らず日本人全体に今も変わらず残っています。
芭蕉は旅の詩人たちの造り上げた文学世界の完成者です。そして彼が旅した東北地方には、国内外から多くの人びとが『おくのほそ道』を追体験するために東北地方を訪れているのです。