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細道・より道・松尾芭蕉

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奥の細道 松尾芭蕉

壺の碑 末の松山、沖の石、多賀城

壺の碑 末の松山、沖の石、多賀城

多賀城は奈良時代に大和朝廷が築いた大きな城柵(砦)です。芭蕉訪問時にはすでに存在していませんでした。城址に残された石碑には多賀城の由来が彫り込まれていました。千年を経て残る古代の証拠に、芭蕉は涙を流して感激します。

芭蕉は、「野田の玉川」、「沖の石」、「末の松山」と古歌に読まれた場所を続けて訪れました。「野田の玉川」は日本各地の「六(む)玉川」、つまり六カ所の玉川として賞美された風景の一つです。「玉川」の「玉」は「宝石のように美しい」という意味で、「きれいな川」を「玉川」と呼びます。

「沖の石」は奇岩が重なる池です。「沖の石がいつも濡れているように、恋に悩む私の着物の袖は涙を拭うのに忙しく、乾く暇が無い」というたとえで和歌に詠まれた名所です。

「末の松山」は海の見える高台になっています。10世紀初めの『古今和歌集』に収められた有名な和歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(もし私が恋人であるあなた以外の人に浮気心を持つとしたら、高台の末の松山を海の波が越していくでしょう。つまり絶対にあり得ません)とあるように、ここを波が越えたことがないという言い伝えを知っていた地元の人々は、2011年の東日本大震災の時、ここに逃れて大津波を避けたということです。

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